1970年代からの棚田の放棄の深刻化
平坦地の水田に比べて棚田は「労力は2倍、収量は半分」といわれます。労働・土地生産性の低さから、米余りによる生産調整(減反政策)が始まった1970年以来、棚田の転作・放棄がみられるようになりました。当初は、農水省のスギの植林政策で主にスギ山へと転換を促されました。その後、棚田地域では過疎・高齢化が一段とすすみ、耕作の担い手ばかりではなく住民そのものがいなくなり、棚田の耕作放棄の深刻化は止まらず集落そのものも小規模・高齢者集落(限界集落)となり消滅の危機が問題となり始めました。
耕作放棄される棚田
棚田博士・中島峰広の見解
棚田の耕作放棄は1970年に始まった。この年は、日本の米づくりの歴史のうえでまさにコペルニクス的転回が行われた年として銘記されている。農林省は、この年まで開田を奨励、たとえば新潟県長岡市の越路原のような丘陵台地のボイ山に渋海川から大型ポンプで揚水し水田を作っていた。それが一転してコメ余りにより生産調整を始めたのである。
その結果、棚田は平坦地の水田に比べて労力は2倍、収量は半分といわれるように労働・土地生産性ともに低いことから狙い打ちされるように転作・放棄されるようになった。この時、農林省は将来の見通しを誤りスギ林への転換をすすめた。しかし、衆知のごとく安価な外材の輸入により木材価格は暴落、立派な石垣の残る棚田は手入れされない荒れたスギ林にかわり、無残な姿を曝すことになったのである。この情景を広島の宮本常一といわれる民俗学者神田三亀男は「人間の営みあわれ石崖の棚田ことごとく杉の茂り」、「奥山の棚田の杉も伐採期伐り賃も出ずと老いら嘆ける」と歌に詠んでいる。
その後、棚田をとりまく環境はさらに悪化、過疎高齢化により耕作する担い手がいなくなり、転作・放棄に一層拍車がかかった。これまでにどれだけの棚田がなくなったか、農水省でも把握していないので推測によるしかない。農水省の資料により算定した1988年の棚田面積は22・3万㌶。2009年の直接支払の対象面積15・8万㌶が現在の棚田面積とすれば、30%ほど減少している。したがって、耕作放棄が始まった1970年に遡ってみるならば、この時から日本の棚田のおよそ半分が放棄されたのではないかというのが私の考えである。