1995年の棚田復興運動の始まり(棚田ルネッサンス)
棚田がどんどん荒れていく状況をなんとかしようと、1995年6月に新潟県松之山町(現十日町市)で「たんぼシンポジウム」が開かれ、全国から420名の人が集まり、棚田を残すための方策について熱心な討議が行われました。また、9月には高知県梼原町で「第1回全国棚田(千枚田)サミット」が行われ、棚田関係者をはじめ市民や研究者など1200人以上が参加しました。そして、NPO法人棚田ネットワークの前身団体「棚田支援市民ネットワーク」が設立されたのもこの年の12月です。棚田を主題にした写真集が相次いで出版されるなど、棚田保全への社会的意識が高まったこの1995年は棚田保全史におけるルネッサンスと位置付けられています。
【1995年を前後して出版された写真集】
1994年:イギリス人写真家ジョニー・ハイマスの松之山町を撮った「たんぼ」
1995年:今森光彦の琵琶湖における棚田のある村里(大津市仰木)の風景を撮った「里山物語」
1996年:ふるきゃらネットワークが全国棚田サミット・写真コンテストに寄せられた作品を編集した「棚田」
棚田保全全国団体の設立
1995年の「全国棚田(千枚田)サミット」の開催とともに発足した「全国棚田(千枚田)連絡協議会」、同年に発足した「棚田支援市民ネットワーク(後のNPO法人棚田ネットワーク)」、1999年に発足した「棚田学会」は、棚田全国組織3団体と言われ、後の全国の棚田保全への広まりに大きな影響を与えました。
棚田(千枚田)を有する市町村、各種団体及び個人が、棚田を通してネットワーク化を図る組織として、会員の主体的な参加を通じて、地域の活性化を図ることを目的として1995年に設立されました。主に、毎年1回開催される「全国棚田(千枚田)サミット」を主催しています。
https://tanada-japan.com/
棚田の荒廃に危機感を感じた都市住民が中心になり、1995年に「棚田支援市民ネットワーク」の名称で活動を開始した市民団体。2002年に「棚田ネットワーク」としてNPO法人化し、主に都市住民と棚田地域をつなげるネットワーク作りや、都市での棚田の窓口として広範囲な保全プロジェクトを提案しています。
http://www.tanada.or.jp/
「棚田」の歴史やそれを取り巻く民俗、地理的環境とそれに対する人々の工夫や技術などの実態を明らかにし、生態学や経済学、農業土木学や、農政学などの成果をあわせて、「棚田」の現代的意義の解明と「棚田」の継承に向けて各方面の英知と熱意が集まる場として、1999年に設立されました。
http://tanadagakkai.main.jp/
各地での棚田保全の代表的な動き
全国各地での棚田保全のもっとも早い事例としては、1970年に行政の政策として行われた「石川県輪島市白米地区」があげられますが、この地域は当初から観光名所としての整備という特殊な例と言えます。本格的な棚田保全としての事例はやはり、1990年以降に現れ、主に三つのタイプに分類されます。
・岡山県中央町大垪和地区
1992年より、棚田米の付加価値を高めるため、有機無農薬米の栽培などを行う水田経営、耕作放棄を防ぎ保全を図る。
各地の棚田保存会の設立
1991年に高知県梼原町神在地区の「千枚田ふるさと会」や1993年に三重県紀和町(現熊野市)丸山千枚田保存会など、主に棚田オーナー制度の運営団体として、地域の棚田保全団体が活躍するようになりました。また、2000年以降は中山間地直接支払制度の補助金がきっかけとなっての設立が盛んになりました。現在推定80団体の保存会が、さまざまな形態で活動しています。また、2003年の千葉県鴨川市大山千枚田保存会のNPO法人化を皮切りに、現在8団体程度の保存会がNPO法人として活動を行っています。
棚田オーナー制度の展開
1992年、第1回棚田サミットが開催された高知県檮原町・神在居地区で初めて「オーナー制度」が始められました。棚田をふるさと景観の重要な資源として位置づけ、都市住民との交流を図る場にしようとする考えです。棚田を所有する地元農民と行政が連携し、都市住民は田植え・草刈り・稲刈りなどに足を運び、農家の人々は技術の指導を行います。都市住民からは利用料が支払われ、来られない作業は農家が維持経営に当たります。これにより棚田の保全・都市住民の来村による地域活性化が行われます。
1999年日本の棚田百選
1999年7月26日に農林水産省によって「日本の棚田百選」が発表されました。百選といっても、実際は117市町村(認定当時)の134地区が選ばれています。これは、棚田がもつ多面的機能が評価され、その維持・保全を図ることを目的とされているため、できるだけ多くの棚田に光をあてようとする考えによるものです。この「棚田百選」の選定が、観光資源としての棚田の可能性を広げ、より一般層への棚田の認知を広げていきました。